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  働かなくてもいい社会を  実現するには?

人間が仕事をしなくても社会がまわる現実的なしくみについて書いていきます。

コモンズの喜劇

 

限界費用ゼロ社会で何度も出てくる超重要な言葉である「コモンズ」。

今回はこれがどこから始まったかを書いていく。

 

~~~~~~~~~~~~~

 

コモンズについての最も有名な叙述はおそらく、

ギャレット・ハーディンが1968年に「サイエンス」誌に発表した

「コモンズの悲劇」と題する論文だろう。

 

(略)

 

コモンズの悲劇とは、

「多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって

資源の枯渇を招いてしまうという経済学における法則」のことである。

 

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ハーディンは、牧草地を共有資源に、多数者を牛飼いに例えて

説明した。

 

ハーディンは、

 

「込み合った世界で破滅を避けるのであれば、

人々は己の精神の外部に存在する強制力に応えなくてはならない。」

 

と主張し、衰退している地球の生態系を効果的に回復させるには、

中央集権化した政府の厳しい指揮・統制の手に委ねるしかないと

信じて疑わなかったのだ。

 

(略)

 

ところが実際には、18~20世紀を通して

第三世界における資源の略奪や人類の大規模な搾取を

引き起こすことにつながったのは、

利益を執拗なまでに追い求めるよう動機づけられ、

政府が主導する高圧的な植民地政策や新植民地政策に

煽られた、市場主導の資本主義体制の行き過ぎだった。

 

 

 ごく最近まで経済学者や歴史家はコモンズを

その妥当性が中世ヨーロッパの封建社会と切り離しようのない

独特の経済モデルと見なしていた。

 

 

 

ところが過渡期の経済では、ビジネスの

 

「中央集中化した指揮・統制」が、

 

「分散型・水平展開型のピアトゥピアの生産」に道を譲り、

 

「市場における財産の交換」より

 

「ネットワークにおける共有可能な財とサービスへのアクセス」

 

の方が大きな意味を持ち、経済生活をまとめあげる上で、

「市場資本」より「社会関係資本」の方が価値が高まってきている。

 

 

 

 このため、ここ25年間に若い世代の学者や専門家が、

コモンズの基本理念と前提を今の時代に合わせて手直しすれば、

過渡期の経済にとって、より実用的な構成モデルに

なるかもしれないと感じたので、

コモンズを統治モデルとして再検討し始めた。

 

 

 

ハーディンの論文がコモンズ理論にとどめを刺し、

棺のふたに最後の釘を打ち込んだかに見えたときから18年後、

キャロル・ローズがそのふたをこじ開け、

自らの論文に「コモンズの喜劇」という題をつけ、

寿命の尽きたアイデアだと多くの人が結論づけたものに

新しい命を吹き込んだ。

 

 

 ローズは

 

私有財産や政府が管理する『公有財産』以外に、

個人にも政府にも完全には管理されていない

『本質的に公共の財産』という独特の部類がある。

『本質的に公共の財産』は社会全体が

共同で『所有』し『管理』する財産で、

その所有権は政府当局と称されるいかなる管理者からも独立しており、

またそのような管理者の所有権より実際に優位にある。

 

と主張した。

 

「本質的に公共の財産」の所有権は「慣習的権利」として知られており、

昔から存在してきた「コミュニティの権利」だ。

 

慣習的権利に関して興味深いのは、そのほとんどが

コモンズの適切な管理を保証する公式あるいは非公式の規約を伴う点だ。

 

※注

(本質的に公共の財産

=海、湖や川、森林、道路、橋

 

 

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慣習的権利

=放牧するために共同で土地を使用したり、

地元の森から薪を拾い集めたり、祭りのために集まったりする権利)

 

 

ローズは公共広場での活動に参加する慣習的権利を取り上げ、

それが社会生活に必須であると長い間見なされてきたことに

注目している。

 

 公共広場は、私たちがコミュニケーションを図り、交際し、

他者と過ごす時間を楽しみ、コミュニティの絆を結び、

コミュニティを育む上で欠かせない要素である、

社会関係資本や信頼を生み出す場だ。

 

仲間に含めてもらう権利や互いにアクセスする権利、

つまり、「共同」で参加する権利が基本的な所有権であるのに対して、

私有財産、囲い込み、所有し、締め出す権利は、

規範からの限定的な逸脱に過ぎない。

 

現代では、その限定的逸脱のほうが規範に

なってしまったも同然なのだが。

 

コモンズで祭りを開くという慣習的権利は、

インターネット上のネットワーク化されたソーシャルスペースへの

ユニバーサル・アクセス権に関する昨今の議論と深い関係がある。

 

祭りなどの社会的活動に関しては、

参加する人の数が多くなればばるほど、

参加者それぞれにとって参加する価値が増す。

 

これはコモンズの喜劇であり、それは「人多ければ楽しみ多し」

という慣用句に表現されている。

 

(略)

 

ローズがコモンズの喜劇を発表してわずか4年後、

エリノア・オストロムが

「コモンズの統治ーー集団行動のための制度の進化」

を刊行した。

 

オストロムは、

過去のコモンズ方式の統治の成功と失敗の原因

に関する洞察に満ちた分析と、

未来のコモンズの管理の成功を確実にする実用的な処方箋で

知識人たちや経済学界さえも驚かせた。

 

彼女はこの研究書の冒頭で、調べたコモンズ組織の多くが、

長い歴史において、自然災害、疫病、戦争、経済や政治の大変動

などを生き延びてきたことを説明するのに心を砕いた。

 

そして、コモンズは非常に優れた統治組織であり、

しだいにつながりを深めるグローバルな世界で

人類が直面する諸問題から再考に値することをこれまでの実績が

示していることを明白にした。

 

彼女の研究は、

あらゆるコモンズがただ乗りのせいで破綻する運命にあるという

コモンズの悲劇を否定するだけでなく、

個人はそれぞれ市場で私利だけを求めるという、

経済学者の間で長年にわたって信奉されてきた通念に疑問を投げかけた。

 

オストロムはその通念とは正反対のことを発見した。

 

牧草地や森林などの共有資源を管理する上で、

私利よりもコミュニティの利益を、

そしてまた各自の境遇よりも共有資源の長期保全

優先するのだ。

 

それぞれの事例でコモンズの存続を可能にし続けている接着剤は、

成員全員が民主的に参加し、自発的に締結し、

合意した自主管理規約だった。

 

オストロムはコモンズの管理の歴史的研究において、

 

「規則を破ることで多大な利益が得られるものの、

それに対する制裁が比較的軽いにも関わらず、

規則遵守水準の高さには、これまでずっと目を見張るものがあった。」

 

と主張している。

 

互いの活動の監視で、

隠れる場所がないから

だけでなく、

信頼を裏切った場合、羞恥の念に駆られたり、

罪悪感を覚えたりしかねないので、

どんな違反も起こる可能性が低くなる。

 

(略)

 

コモンズがコモンズであり続けているうちに

生態学的破壊に見舞われた例には、これまでひとつとして

お目にかかったことがない。

 

 

 (引用終わり)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

限界費用ゼロ社会は大きく分けて5つの部に分かれているんだけど、

コモンズに関する第3部は他の部に比べて、

馴染みのないことで理解するのにかなり時間がかかった。

 

この本のあらゆるところでコモンズ、コモンズ、コモンズと出てくるのに、

第3部が取り掛かりづらく、なかなか「なぜコモンズが必要なのか」

をよくわからずにいたが、ようやくわかってきた。

 

共有経済が広がりをみせる今、

資源を共同で所有し、長期にわたり、利用するためには、

自然環境などを守り抜いてきたコモンズによる統治が

ふさわしいということ。

 

また、中央集権型、上下の関係であるのに対して

インターネットのような参加型、ネットワークにおける横の関係では

コモンズのような参加モデルが適しているということ。

 

ついでにいうと、利益が徐々になくなり、お金で人を動かすことが

できなくなっていくので、お金を出す、もらうという上下関係もなくなり、

お互い対等な横の関係になっていくのかも。

 

 

というかこれくらいしか現時点では理解できないので、

まだまだ改良の余地があるかも。